まえがみのニンニンニン

我が名はまえがみであり前髪である。書きたいことを書きたいように書いているのである。

初心について

こう、音楽を作っていくと

最初「この曲はスローバラードにしよう!」とか

なんとなく展望があって作り始めたりする。

 

が、しかし、出来た曲はどんなに大まかに見積もっても

バラードのバの字も感じられない曲になったりする。

 

これもまた、予想外の出来事、って感じで楽しい。

未来が見えない感じで楽しい。

 

のであるが、その、初めにおもった「バラードにしよう!」

という気持ちは、忘れてしまったかのように見えて、

心のどこかに、小さな絆創膏になって張り付いていたりして、

その気持ちをどこかで成仏させたい気持ちになったりもする。

 

 

初心は大事だと思う。

そのはじめの勢いを作り上げたものだから、答えにならずとも

なんらかのヒントや、支えになるものであるように感じることが多い。

 

「初心」は色々なタイミングで持つことになる。

(初心、だから、何かをはじめたり、何かが変わったタイミングに持つものか。単純に。)

 

ぱーっとふりかえってみると

何をおもって大学に行こう、と思ったのか、とか

なぜバンドをやってみたい、と思ったのか、とか

仕事を選んだ時もあったし、やめる時だってあった。

特定の人に興味を持ったタイミングとか、

 

(どうでもいい初心は、「ワッフルメーカーを買おう!」と思った時とか。こういった初心は大抵の場合早々に忘れ去られる。)

 

初心はわりといつでもキラキラとしている。

忘れられた初心は、貼ってることも忘れてしまった足の絆創膏のように

存在感を消し、黒くなりつつも、そこにあったりする。

もう必要ないのなら、はがしてもいいような気もするが、

あー!忘れてたー!やべえ!ってなるなら、新しいのに張り替えてまたキラキラとさせたいものである。

 

 

「初心、忘れるべからず」

という言葉は、元は室町時代の有名な猿楽師「世阿弥」の言葉らしい。

現代の認識では「慢心せずはじめの気持ちを大切にし、真摯に物事と向きあい続けろ」

というような意味あいにおもえる。

 

それが記された原作?の言葉は、

「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。」

と、3つに分けられているそうだ。

 

是非の初心は、未熟だった時の熱意や、その時の自己のレベルなどを忘れてはならないということ。

時々の初心は、段階を踏んだ時の、例えば青年期から、壮年期へ、などと変わった時に持つ初心についても忘れてはならないということ。

老後の初心は、年を取り経験があるからといって、初めてのことに遭遇しない、ということはないから、そこでの初心も大事に、いくつになっても、諦めず、慢心せず、芸を極めていけ。

 

と、こんな感じということだ。

ズサッズサッ

(心に何か突き刺さるのを感じている)

 

猿楽や田楽を、能という芸術に進化させた、大大大成者である世阿弥の言葉であるというのもあり、ずっしりと重い。

ここまで初心を意識するには、初心を忘れない、以前に、その物事に、ありったけの本気である必要がある。

「本気であり続ける」ということがどんなに難しいか…。

ああ、でも意識していたい初心。慢心がなにより、よろしくない。

 

 

初心は汚いバンソウコーなんて言ってないで、

さっさと物事に情熱を傾けろよ、自分、と思う、まえがみなのであった。

 

おやおや、ここに、たしかにあった今年のはじめの初心の写真があるぞ。

 

英検2級は達成できたが、日本語教師検定はがんばれなかった。

いまだに頻尿だし、困知勉行はその言葉さえ忘れていたねえ。

ただ、前髪爆誕に関しては、今そこにむかおうとしているところだ。

 

様々なことに熱意を向かすのは本当に私にとっては大変だが、

英語英語。

英語しよう、英語。今年中にもう一度熱意に花をさかそう。

 

今年もいつのまにかあとわずか。

初心について思いだすには、とってもいい時期。

ゆえ

初心を思い出してみた次第であります。