まえがみのニンニンニン

我が名はまえがみであり前髪である。書きたいことを書きたいように書いているのである。

思い込みに勝つ人生を歩みたい話

最近強く思ったことがあったので、それについてメモがてらメモ。

 

 

私は一人暮らしを始めてから、美味しいものをたくさん食べる機会にめぐまれた幸せものである。

(また食べ物の話かよ!っていうツッコミは早いぞ!)

そのおかげで、興味なかったり、好きじゃなかった食べ物を好きになったりした。

 

という我が食に対する気持ちの歴史を、思い出したのだ。

 

 

高校生までの私は、そんなに食べる事に執着心はなかった。

 

実家時代。愛しき不器用かつまっすぐな母親は、がんばってほぼ毎日3食の食事を作ってくれていた。

それにはいつだって感謝をしていたが、母親の作るごはんは、まずくはないが、特別美味しいものではなかった。(ごめんなさい)

なので、母親のよく出すレパートリーに入ってるものには、無意識に私のそんなに好きじゃない料理になっていたものが多かった。(例外ももちろんある)

 

たとえば、そぼろごはん、あじのひらきや、マーボーナスや、ラーメン、カレーうどんなど…。

 

しかしながら、東京やその他色々な場所で色んな食べ物を食べ、、「それ、好きじゃないけど…」と思いつつ食べた料理が、私の常識を少しずつくつがえす。

美味しいバージョンのこれは、美味しいんだ!!!と・・・。

 

もちろん、実家→外食、での好みの変化だけでなく、おいしくないお店→おいしいお店 で意識が変わった食べ物もたくさんある。

 

美味しさを提供する難易度が高く、味に雲泥の差があるものこそ、この穴に陥りやすい。

 

海鮮や、ホルモンなど。

カキやサザエやみる貝は、美味しいものを食べるまでほんっとに興味がなかったが、究極に美味しいものを食べて驚きと感動を覚えた。

ホルモンは私が東京にきた当初はあまりおいしいものにめぐりあえず、嫌いにちかい食べ物であったが、だんだん本当に美味しい店を知り、あの頃と同じ食べ物か?と感じるほど、好きになった。

 

たこやきなんて、好きになったのは最近だ。

それもたまたま、抜群に美味しいたこ焼き屋さんに出会えたから。

 

給食のレバーや芽キャベツは、人が食べるものとは思えぬほどおいしくなかった。

しかし、これも美味しいお店が認識を変えてくれた。

 

 

ということから、味そのものが苦手、触感が苦手、生理的に無理、アレルギー、というものでなければ、「〇〇が嫌い」という、のは、もしかしたら

ただ本当に美味しい〇〇に出会えてないだけ、なのでは、と思う。

 

 

とはいえ人は単純なものである。一回の経験で、それがイコールになり、「●●は好きじゃない」「おいしくない」となってしまうのだから。

 

それは食べ物に限ったことではない。

どこかの観光地や国へいき、楽しくなかったら、そこは楽しくない場所、という認識になるし、かわいくないプードルに噛まれた経験があれば、犬は好きだけどプードルは嫌い、になるかもしれない。(極端)

 

感じ方、というのは「実際のそのものの変化や違い」に動かされるだけでなく、自分の状態、気分、時間などにも大きく左右されるものだから、さらにややこしい。

(逆に、過去に食べてめちゃくちゃ美味しかったものが、また食べて美味しいとは限らない)

 

だけど、それは、その時のそれが、微妙だった、というように考えたほうが、好きになることを知る、良きものを知るチャンスを広げる。

 

しかしながら、一回苦手だと思ったことを、克服するのは大変だ。

人もそうだ。

一度苦手、と思った人と、苦手意識をなくし付き合っていくことは難しい。

けど、それを乗り越えていった先に、その人の魅力に出会えたりする。

そしてまた新しいことを知ることに繋がっていく…。

 

 

えらそうに書いているが、私は思い込み激しい人間なので、まさにこの「●●は●●だから苦手」の穴にはまりがちな張本人である。

食べ物にも人にも、場所にも、映像作品や音楽に対してもよく発揮している。

そして自分の間口を狭めている。よくないんだよなぁ、これ。とくに創作をしていきたい身としては、ほんとによくない。こだわりはもつべきだとは思うけれども。

 

と、まあずっとそんなことは分かっていたんだ。だけど難しいんだ。

今回は食べ物について思い出したことで、またそれを強く認識するにいたった。

この記事は、自分への戒めである。

 

固定観念でガチガチになり、好奇心を失っていくことこそ、

精神的な老いである。

いつも、いつまでも、新たな好きなものに出会え、心を動かせられる自分でありたいものだ。

 

 

……もう一度言うが、この記事は自分への戒めである。