まえがみのニンニンニン

我が名はまえがみであり前髪である。書きたいことを書きたいように書いているのである。

日本語は情報量が少なくなる問題と英語の歌の日本語化の難しさについて

 

突然だが、この英語の歌詞をご覧いただこう

 

The snow glows white on the mountain tonaight

Not a foot print to be seen

A kingdom of isolation

And it looks like I'm the queen

 

これは、ディズニーアニメ「アナと雪の女王」のあの有名な「Let it Go」の冒頭

8小節分の歌詞。

これを、割と正確に和訳すると、こうなる

 

今夜、山の雪は白く輝いている

見える足跡はひとつもない

孤立した王国

そしてそれは私はその女王であるようだ

 

さて、これを無理やりメロディーにのせてみると…。

なんとういことでしょう!

日本語では、上半分で8小節分使ってしまうのです!!!

 

まずそもそも日本語は助詞(は、とか も、とか)があって

文章が長い。

そしてさらに普通一語1音符使ってしまうので、

圧倒的に音符が消費されてしまうのである。

 

そのため、同じメロディで英語と日本語の歌を作るとすると

日本語の詩の情報量は英語に比べて、めちゃくちゃ少なくなってしまう。

 

以前、逆に、ザ・ブルーハーツの「夕暮れ」という曲を

英語バージョンにしよう、として訳にとりかかったとき、あまりに音符があまるので

原曲にはない表現を入れ込む、という力技をしなくてはならなくなった。ギャフン。

 

ともあれ、増やすならまだいい。

英語を日本語にするときは、元の詩の美しさや個性、リズム感を大切にしつつ

短くまとめあげる必要がある。

 

正直、正確にやるのは不可能である。し、やる意味もないと思う。

歌はその内にあるアーティスト(もしくは作詞家)自身の背景や魂の存在の意味も含め、

元の言語であるべきものであると思うから。

(それをそのまま味わいたいのならその言語を学び、その国に住み、文化に溶け込め!それしかない!というやつ)

 

しかし、不可能であるからこそ、考えてみたい、という気持ちが生まれてくるものである‥。

 

 

近頃、故デヴィッド・ボウイ氏の歌詞に、詩的感覚というか、美しさというか、

言葉選びというか、情景の選択というか、

なんか色々彼の詩人としての良さに気づくことがあったので、

あの美しさを日本語にして、その感覚を原曲に限りなく近くするには…

ということを考えていた。

今回の記事は、そんなことがあったゆえ、これについて書こう、と思って書いているなうである。

 

 

歌じゃなくても、翻訳家の人が当たり前のように修行し実行している部分だと思うけど

やはり、カットと言い換えが大事だと思った。

 

言葉が同じじゃなくても、感覚が伝わればいい。

 

言い換え。はそれ自体、知識と技術が必要な難しいことであるけれど

読ませるだけのものだったら、まだマシだ。

 

歌はメロディにのせなければいけない。無理なく。

そして気持ちよく。

 

なんて難しいことだろうか!!!

やっぱり不可能である。

 

けど、不可能であるからこそ、考えてみたい、という気持ちが生まれてくるものである。(二回目!!)

 

かの、ビリー・ジョエル氏のめちゃくちゃ有名な曲「Piano man」。

 

youtu.be

私は別に彼のファンではないが、この歌の情景がとっても好きである。

曲のもつ雰囲気と、歌詞。

メロディラインと、編曲と、曲のための詩の大切さをガビーン!と感じる、それらが200%マッチした名曲と思う。

 

この曲の内容は、大衆酒場(アメリカのバー?)に集う色んな人々が

ピアノ弾きにこの曲を歌ってくれ!って頼んでる、っていうものなんだけど、

メロディや演奏と相まって、世知辛さや人間の孤独さ、時の切なさなどを、感じる。

 

私はこの時代の人間ではないし、アメリカでのこんな体験もないにも関わらず、

どこか切なく懐かしく感じる。病んでる時に聞いたらポロっといってしまうだろうと思う。

 

日本の昭和の名曲を評価する外国人も、こんな感覚なんだろうなぁ。

良きメロディや詩は国境を超えるんどすなぁ。

これを日本語化したらどないなんどすかなぁ。

 

ということで、この曲を訳して歌っている日本の方々をyoutubeで見てみた。

そうなるよね!っていう感じでそれはそれで悪くないのだが、やはり、うーん、

難しさを感じざるをえな…かった…。

 

原曲を好きだからこそ、色々捨てられなくて、いっぱいいっぱいの和訳になっちゃうんだよね。あと、文章や言葉の順序の大切さもあるから、入れ替えられなかったりして。

わかる、わかるんだぜ。

なので、完璧は不可能であるけれども、限りなく良き「歌の日本語化」のためには「切り捨てる勇気」が必要なのだと思いました。

 

で、自分も冒頭の日本語化に挑戦してみた。ものは試しである。

 

It's nine o'clock on a Saturday
The regular crowd shuffles in
There's an old man sitting next to me
Making love to his tonic and gin

 

今日も人で溢れる 土曜九時、この店

隣のジイさんは、ジントニックとたわむれてる

 

はい…

これでも………がんばったんだよ!!

 

やはり情景と大事なワードを意識しつつ

メロディに日本語を気持ちよい「歌詞」としてのせるのは、

大変なことなのである。

土曜九時はいらないか?

ジントニック、にする必要はないか?お酒でいいか?

とも思ったりして、難しいぜ、全く。

 

 

ということで、改めて「詩」そして「歌詞」のすばらしさを感じている

まえがみであった。

 

英語の詩の良さ、について語ってる、みたいになっちゃったけど

言語にはそれぞれ良さがあり、

日本語の曲には日本語にしか出せないリズミカルなポップさなどの魅力があると思っている。

 

前から言ってるとおり(言ってるっけ?)私は音楽好きである以前に

詩好き、言葉好き、なので、これからも、日本語の良さを意識した

詩づくり、曲づくりをしていきたいと思う次第である。

 

 

 

 

おっとっと、終わるところだったけれど、

これだけ、最後に残しておこう。

 

 

私が本当に魅力的と思う、デヴィット・ボウイの詩曲(あえてそういおう)

「Life On Mars?」

youtu.be

 

ま じ で

この歌詞は、一見、何を言いたいのかが全く分からない難しい詩である。

いや、十見しても分からないかもしれない。

これを、限りなく良く日本語化、できたらなあ。できないなぁ。

まあ

歌詞なんて、100人いたら100人の捉え方があっていいと思うので、結局、なんでもいいのである。

ただ、この詩は、今の私にとっては、素敵で、彼の詩の才能しか感じない詩だ。

 

 

受け取り手が想像を膨らませる余地があり、直接的でないのに何か答えが見えてきそうな詩こそ、至高の名詩である。(何度もいうが、私にとっては、だ)by まえがみ